日本トルコ文化交流会 TURKEY JAPAN CULTURAL DIALOG SOCIETY

Sep29

独遠寺での座禅会に、nittoKAIトルコ人スタッフが日本人のゲスト様とともに参加して参りました。
スタッフにとって、仏教の世界観を知ることや、お寺の空間で座禅を組むことは、とても興味深い体験となりました。



座禅をさせて頂いた、独園寺 藤尾聡允副住職さまのコメント:

9月29日土曜日の午後、秋色に変わりつつある山に囲まれた独園寺に、日本トルコ文化交流会のみなさんをお迎えいたしました。
寺では、お客様との出会いはすべて尊い「一期一会」と考えます。(We enjoy and treasure every "encounter and sharing time" as it may be the first and last chance, because it may not happen to us again.)
ほとんどの方にとって、坐禅は初めての体験でしたので、基本的な姿勢(調身)、禅の呼吸法(調息)、そして心を整えていく(調心)作法を最初に説明させていただきました。
時には警策(木の棒)で背中を叩く音が本堂に響きましたが、途中で休憩を入れながら約15分間の坐禅を3回行いました。 1回目より2回目、2回目より3回目と、みなさん徐々に背筋が伸び、姿勢も呼吸も整っていかれました。
坐禅の後は、お茶を飲みながらしばしお話をして、とても楽しいひと時を過ごさせていただきました。
現代社会が生み出すストレスはますます多様化し、その重さも複雑さも増し続けています。 多忙な毎日の中で、たとえ短時間であっても一日一度、静かに自分を見つめる時間を持つことは、今を生きる私たちにとってとても大切なことだと思います。 坐禅は特定の宗教に限られない自己鍛錬法であるとともに、誰でもどこでも実践できる心身のお掃除、リフレッシュ・タイムにもなります。 ゆっくりとした時間の流れを感じられるように、正しい姿勢と呼吸で、いつでも自由に座っていただけたらと願っています。


*****


ゲスト参加者の感想:

小国綾子さん(毎日新聞)

日本トルコ文化交流会の友人から、「座禅、組みに行きましょう!」と誘われた時にはワクワクした。実は、日本に生まれて四十年余、座禅を組んだことが一度もなかったのだ。今やあちこちのお寺で座禅や写経の体験会が行われているというのに参加したこともなかった。それがなぜか、トルコ人の友達から誘われたのが、生まれて初めての座禅体験になるなんて。
なんと不思議な縁だろう。

独遠寺の藤尾聡允住職から、座禅を組む前にあれこれ説明を受けた時のこと。
トルコの友人がこんな質問をした。「座禅をしている間、自分の信仰の向かう先、信じるお方を思い浮かべてはいけないのですか。何も考えない、というのはよく分からないのですが」。
なるほど、信仰心を持つ者にとって、座禅の最中に自分の信じる神を思わないことのほうが難しいのだなあ、と初めて気付かされた。さらに興味深かったのは、この質問に対する藤尾住職の返事だ。彼は「座禅は、宗教行為ではありません。私は、座禅の最中は何も考えませんが、あなたがあなたの信じる神を思っても、それは構わないのですよ」と穏やかに言ったのだ。
座禅は仏教の宗教行為と思っていた私は、目から鱗が落ちた思いだった。
藤尾住職はこうも言った。「座禅は特定の宗教に縛られません。どんな宗教を信じる方も、座禅を組むことができます。座禅は多様な文化・宗教に開かれているのです」。
修行や実践を通して教えを体得しよう、という人にとっては、座禅は修行であり、やはり宗教行為なのだと思う。しかし一方で、日本では、多くのスポーツ選手や芸術家、会社経営者らが、自身のニーズで座禅に取り組んでいる。彼らにとっての座禅は、宗教的な意味を持たないことのほうがむしろ多い。学校行事や企業の新人研修に座禅が組み込まれることが増えているが、これも宗教行為ではない場合が多いだろう。
座禅という行為はどうやら、私が思っていた以上に懐が広いのではないか……とそう気付かされたのだった。

いざ座禅を始めて、今度は自分の身に起こった現象の方に驚いた。突然、頭の中で音楽が鳴り響いたからだ。それは今、合唱グループで歌っているラテン語の宗教曲。つまりキリスト教の神をあがめる歌だった。
なんだなんだ?
畳敷きの臨済宗の寺で、主にイスラム教徒の友人たちの隣で、座禅を組みながら、キリスト教徒のための音楽に心を委ねている、無宗教の私っていったい……。
反射的に、心に流れ始めた音楽を無理矢理遮断しようとした。そして、ふと藤尾住職の言葉を思い出した。「座禅は多様な文化や宗教に開かれているのです」。ならば、「無の境地」になれないにしても、心静かに座禅を組んだ時、心に浮かぶイメージや音楽を、ただ受け入れることもまた、許されるのではないか。
特定の神は信じられないけれど、何百年間も人々の営みを見守り続けてきた巨木や、人知を超えた存在がなければありえないほど美しい自然の風景を見るたび、畏敬の念を感じてきた、そんな私にとって、信仰のあるなしに関わらず心の平静を取り戻せる座禅という行為は、予想以上に心地良いものなのだった。

いろいろな発見の多かった今回の座禅会。気付きのきっかけをくれたのは、一緒に座禅を組んだトルコの友人たちだった。日本人だけで座禅を組んだのでは、きっと私はそれに気付けなかっただろう。異なる宗教や文化、社会にそれほど思いを寄せることもなく、ただ、「無の境地ってなんだろ」などと座禅を組んで終わっていた気がする。
誤解を恐れず、信仰の話やお互いの文化の違いについて語り合えるトルコの友人を得られたことが、今はとてもうれしい。
藤尾住職は、座禅に興味を持った多くの外国人をこれまでも受け入れてきたという。異なる信仰を持つものが、同じ部屋で、座禅を組む。そんな光景が、藤尾住職のお寺では当たり前のように行われてきたことを、そして、私自身もその体験をさせていただけたことを、心よりありがたいと思ったのだった。

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