日本トルコ文化交流会 TURKEY JAPAN CULTURAL DIALOG SOCIETY

Apr07

2014年3月、東京国際大学国際交流研究所所長の塩尻和子先生、筑波大学 北アフリカ研究センターの岩崎 真紀氏のお二人のトルコでのフィールドワークツアーを、nittoKAIスタッフがアテンドしました。

お二人はエフェスやイスタンブールで古代史跡やジャーナリスト作家財団、アルメニア正教会などの施設の訪問のあと、東トルコへ向かい、聖アブラハムの湖や、聖ヨブの洞窟など聖書に登場する歴史的・宗教的に重要な旧跡を周られました。


早春のトルコにて(2014年3月15日~19日)
塩尻和子(東京国際大学国際交流研究所長)

 
私にとって3度目のトルコ訪問となる今回の出張では、日本からイスタンブルを経て、まずイズミルで1泊、翌日の夕方にはイスタンブルへ戻って一泊し、シリア国境に近いシャンルウルファへ飛んで、2泊をし、そのままシャンルウルファからイスタンブル経由で帰国するという、短期間に東奔西走をした出張であった。薄紅色の果樹の花が開きかけた早春のイズミルから、まだ冬枯れのピスタチオの農園が広がるハッラーンまで、広大なトルコを東西に駆け抜けた旅となった。

1、ハッラーン
 シャンルウルファの町から車で1時間ほどの距離にあるハッラーンは、アブラハムに因む場所として、ヘブライ語聖書でカランとして触れられている(創世記11章31~32節)古代都市の遺跡である。アブラハムがまだアブラムと名乗っていた頃、神の指示に従って、カナーンへ向かうために、一族を率いてカルデアのウルを出たのち、一時期、住んでいた町である。しかし、この町が世界文明史において、非常に重要な役割を果たした町であることは、あまり知られていない。
 今回、初めて訪れてみると、ハッラーンの遺跡には「世界最古の大学」という看板が建てられていた。大学として世界最古に当たるかどうかの判断は難しいが、紀元前387年頃にプラトンが創設したギリシアのアカデミヤを引き継いで、古代ギリシアの文献を現在に伝える役割を果たしたのが、このハッラーンとジュンディーシャープール(現在のイラン西部)の学問所であった。
ビザンティン皇帝ユスティニアヌスは529年に、ギリシアの学問が多神教時代のものであるとして、アカデミヤを閉鎖したが、ハッラーンでは431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教徒が中心となって、ギリシアの哲学書や科学書がまずシリア語に翻訳された。ネストリウス派のキリスト教徒は、当時、シリア語を用いていたからである。このシリア語訳のギリシア文献が、アッバース朝期になると、カリフの命令でバグダードへ移され、「知恵の館」の大翻訳事業へと繋がった。やがてイスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちとの共同作業によって、ほとんどすべてのギリシア語文献が、直接アラビア語に翻訳されるという一大翻訳事業が展開された。
その結果、アッバース朝の都、バグダードを中心に、哲学、数学、医学、薬学、化学、天文学などの現代の科学技術につながる輝かしいイスラーム文明が発展したのである。そういう意味では、世界の文明史においてハッラーンの町が果たした役割は、非常に大きいが、いまでは荒れ果てた数本の柱や小さいアーチなどが残るのみで、世界の秘境の一つとなっている。
 実は当初、旅行行程表に「ハラン村見学」とあるのを見たときには、私が長年、訪れたいと願っていたあのハッラーン遺跡であるとは、思いつかなかった。それだけに、今回の旅では、イスラーム思想史を研究する私には、実に感慨深い、嬉しい訪問となった。

2、預言者たちの足跡
 シャンルウルフの町には、アブラハムとヨブという2人の重要な預言者に因む場所があった。ヘブライ語聖書のヨブ記には、正義の人であるヨブが神の激しい試練を受けながらも、神を信じ続ける姿が描かれているが、体中にできた「できもの」を泉の水で洗うと治癒した、という記述はない。しかし、クルアーン38章41~42節には、アイユーブ(ヨブ)が神の言葉に従って、足で地面を踏むと清らかな水が湧き出てきて、その水で体を洗うとたちまち「できもの」は治癒したと記述されている。その泉の場所がシャンルウルファの町の地下にあるヨブの泉であり、今日まで聖なる水が湧き出ている、と信じられている。
アブラハムが生まれたとされる青い湖と、敵に火をかけられたが、神が炎を水に替えたという故事(クルアーン21章68~69節)にちなむ聖なる川、それらを取り込むように立つ壮大な聖アブラハム・モスクは、ウルファ城の遺跡が立つ丘のふもとに見られる。
 ヘブライ語聖書によれば、アブラハムはシヌアルという土地で父テラから生まれた、と記載されている。ハッラーンはアブラハム一族にゆかりがある土地であるとされるが、彼がウルファで生まれたという記述は、聖書にもクルアーンにも見られない。しかし、土地の人々は、彼が迫害を避けて青い湖の洞窟内で生まれたと信じている。私達が訪ねたときも、青い湖の洞窟には、多くの敬虔な人々が、長時間、座り込んで祈りを捧げていた。
 聖アブラハム・モスクの一角に、サイード・ヌルスィー(1876-1960)の墓地の跡が、壁に掲げられた墓碑銘とともに、そのままに残されていた。ヌルスィーはトルコ近代の高名な神秘主義思想家である。彼の墓は他所へ移されたが、今日でも格子戸の外から敬意の眼差しを向ける人が多い。
 さらにシャンルウルファでは、市内にある「無料塾」を訪問した。これは、十分な教育を受けられない家庭の子女に無料で良質な教育を施すボランティアの施設であり、使命感をもって教育活動を続ける女性たちの姿に感銘を受けた。アラビア語を母語として話す家庭の少女もいて、訪れた私達に可愛い声で歓迎の歌を唄ってくれた。アブラハムとヨブという預言者に因む町では、率先してボランティア活動を行う人びとの献身的な姿が強く印象に残った。

3、スレイマーン・シャー大学で
 イスタンブル郊外に3年前に開校したスレイマーン・シャー大学では、以前から会いたいと願っていた人文社会学部長のアドナン・アスラン教授に会うことができた。アスラン教授の学位論文をもとにして出版されたReligious Pluralism in Christian and Islamic Philosophy(Curzon Press, 1998)に大きな感銘を受けた私は、いくつかの論文でそれを紹介した。今回、そのひとつで、共著の『宗教多元主義を学ぶ人のために』(世界思想社)を先生にプレゼントした。日本語であるが、アスラン先生の著作を紹介している注の箇所に付箋をつけて渡すと、アスラン先生は顔を赤らめて恥ずかしそうに「遠い日本の研究者が私の本を読んでくれて、研究に使ってくれていたなんて」と喜んでくださった。
 私の講演は、大学にとっては急な手配となったようであるが、午後4時から1時間、という約束で、”New Challenge of Interfaith Dialogue with Islam in Japanese Religious Environment” を発表させて頂いた。思いがけず60名以上もの学生と教員が参加して下さった。ほとんどの日本人は本人が気づかないうちに、仏教・神道に所属しており、自主的に参加している宗教を加えると、一人が2つ以上の宗教団体に登録されている、と話すと、会場から驚きの声が上がった。講演後に何人かの人から、複数の宗教に所属していることについて質問があり、日本の「宗教に無関心な」宗教環境について理解が難しいという印象をうけた。
その後、日本トルコ文化交流会のエブル・イスピルさんから、トルコ国民の身分証明書には必ず、自分が所属する宗教名が1つだけ記載されており、この身分証明書は肌身離さず、身につけていなければならないのだと、聞かされた。トルコの人々にとっては、複数の宗教名をどのように記載するのかという点と、イスラーム以外の信仰を持つことが禁じられているムスリムにとっては、複数の宗教に参加するということは、宗教法に触れる大犯罪であるという点に、戸惑いがあったのである。
トルコ共和国は成立以降、世俗主義を国是としている。従って、世俗主義の社会であっても、人々が自己の所属する宗教名を記載した身分証明書を携行しなければならないとは、私は、うかつにも気づかなかった。私の講演を聞いたトルコの学生や教員たちが、非常に驚いた顔をしていたのも、きちんとした理由があったのである。
トルコ社会について、またひとつ、新しい視点を学ばせて頂いた、よい機会となった。

4、家庭訪問
 今回の短いトルコ滞在中に、イズミルとシャンルウルファの2都市で、一般の家庭を訪れる機会を与えていただいた。トルコ地方選挙戦の最中であり、街中に旗飾りやプラカードが溢れている騒々しい中で、見ず知らずの私達を、二つの家族は暖かく迎えてくださった。
 トルコでは、決して裕福とはいえない、中流程度の家庭であると説明されたが、フラットの広さ、家具の質の良さ、子供たちの教育レベルの高さ、そして、なによりも心のこもった持て成しに感激した訪問となった。
 イズミルの家庭では、長男が日本の高知大学を卒業し、現在はイズミルの日系企業で働いていることで、久しぶりに日本語で話せると、とても喜んでくれた。しかし、両親や兄弟たちは、日本語も英語もできず、その長男とエブルさんの通訳で意思を通じあった。
 言葉の問題は、シャンルウルファの家庭でも同じことで、二組の家族が集まってくださり、心づくしの夕食を頂戴したが、直接、意志を通じあうことができず、こちらでもエブルさんの通訳のお世話になった。お陰でエブルさんは折角のご馳走を食べることができず、お弁当にしてホテルに持ち帰ることになってしまった。
 トルコ語ができない私には、言葉を通して直接に通じ合うことはできなかったが、世俗主義を国是とするトルコ共和国にあって、穏やかな宗教回帰を感じさせてくれる篤信家の人々に出会え、「旅人には親切に」というイスラームの精神が何世代にもわたって守られていることを強く確信した。
これらのすべては、地方選挙戦の最中にトルコ共和国を訪問した大きな成果でもあり、まだ形になってはいないが、しかし、次の時代の新しい息吹が、そこここに感じられる旅でもあった。
忙しい出張の旅に付き添い、丁寧に案内をして下さった日本トルコ文化交流会の広報担当、エブル・イスピル博士に、この場を借りて、心からの感謝を申し上げます。



トルコの魅力:景観、芸術、食、民族や宗教の多様性の観点から(2014年3月15日~28日)

岩崎真紀(筑波大学 北アフリカ研究センター/比較文化学類 助教


今回はじめてトルコを訪問し、景観、芸術、食、民族・言語・宗教の多様性がとても印象に残った。

1.景観
イスタンブルの青々とした海峡に映える赤茶色の屋根と白い壁の家々、メソポタミアの広大な緑の中に忽然と現れる、天空の城ラピュタを彷彿とさせる灰茶色の岩山の街マルディン、真っ白な裾を翻し扇舞するスーフィーたちの伝統が現在にも生きている、どこか穏やかな空気が漂うコンヤ、思い出すとまぶたの裏に鮮やかによみがえってくる。

2.芸術 
イスタンブルのスルタン・アフメットモスクの内部は、繊細で可憐なアラベスクで彩られており、ずっと眺めていても飽きることがない。これほど有名ではなくとも、訪れたどの街のモスクも、内部には美しいアラベスクが描かれており、トルコのモスクの芸術性の高さを感じた。

3.食
豊富な食材と多彩な方法で調理されたトルコ料理は、どんな小さなレストランでも本当に美味だった。なかでもコンヤで食べたエトリ・エキメッキ(薄生地のピザ)のおいしさは格別だった。固い桃に似た歯ごたえでさわやかな味わいのまだ青い生のアーモンドの実、色とりどりの宝石のように輝くお菓子ロクムも印象的だ。所狭しと置かれたさまざまなナッツ類やドライフルーツには、どの街の市場に行っても目を引かれた。

4.民族や宗教の多様性 
トルコ人と一口に言っても、髪や目、肌の色、言語、宗教やその実践具合は実にさまざまで、その多様性には大変驚かされた。日本で言えば鎌倉時代から大正時代という長きにわたり、広大な領土を維持したオスマン朝時代の民族や文化の融合を垣間見るようだった。これに関して、より詳しくは、筆者の所属先の筑波大学北アフリカ研究センターのホームページご覧いただければ幸甚である。

5.尽きぬ魅力
 アジアとヨーロッパ、イスラームとキリスト教の伝統が交差するトルコには、それぞれの文化が混ざり合い、磨き上げられた、得も言われぬ魅力があることが、今回よく分かった。それに惹きつけられた人はまたトルコに行くのだろう。わたしはきっと行く。

最後になりましたが、この訪問がこれほど充実したものとなったのは、行く先々で暖かくもてなしてくださった現地の方々や旅程をアレンジしてくださった方々のおかげです。現地の皆様、この出会いを提供してくださった日本トルコ文化交流会、そして、この訪問をアレンジし同行してくださった同会のエブル・イスピル博士に、心よりお礼申し上げます。
 

訪問都市:イスタンブール、イズミル、コンヤ、カッパドキア、シャンルウルファ、マルディン

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